大山崎と歩む150年の歴史

大山崎町に人が暮らし始めたのは今からおよそ2万年前の旧石器時代です。

その後、縄文・弥生・古墳時代と集落が営まれ、奈良時代以降、都への交通の要衝として物資や人々の行き来が多くなり、 たくさんの公的施設や貴族の屋敷が建ち並び、ますます繁栄します。

平安時代には山城の国の国府が当地におかれ、平安京の西の玄関口としてにぎわいました。

鎌倉・室町時代になると大山崎は荏胡麻油生産者である神人たちの活躍により経済力を持ち、活気に満ちた自治都市として 広く知られるようになります。

やがて戦国時代も終わりの頃、「天下分け目の天王山」で有名な「天正山崎合戦」が羽柴秀吉と 明智光秀の間で戦われ、勝利した秀吉は当地に城を築き、秀吉の茶頭であった千利休が茶室「待庵」を造ったといわれます。

江戸時代には当地は八幡宮の神領として幕府から自治権を認められ、また街道沿いの町場としてにぎわいを見せます。

時は流れ、明治維新を間近にした幕末、混迷する情勢の中、真木和泉の守ら志士十七人が、 禁門の変で敗れ、自害して果てたのも、ここ天王山だったのです。 明治に入り市町村制が施行されると、大山崎村、円明寺村、下植野村の3村が合併し、大山崎村が誕生し(明治22年)、 その後、昭和42年には大山崎町となりました。(大山崎町公式HPより)

歴史の宝庫大山崎。妙喜庵にある国宝の茶室「待庵」は、千利休が唯一残した茶室であると言われます。油の発祥地である離宮八幡に隣接する三笑亭は、明治開業以来、春は筍、秋の山菜と豊かな山の幸を美味しい天ぷらや炊き合わせ等で楽しめるお店です。

離宮八幡の西側に隣接する三笑亭(さんしょうてい)は、西国街道の京都と大阪の境目に位置していて、かろうじて京都府です。 開業は明治時代という150年余りの歴史があります。油の発祥地である離宮八幡宮の御神油を頂いて天ぷらを始め、当初は料理旅館でしたが、今は割烹料亭。木造2階建てです。